散骨屋日記

散骨屋への旅立ち

1971年5月5日横浜の大桟橋から客船「チワンギ」が
オーストラリアのシドニーに向け出航した。
25日間にわたる航海だ。

私はちょうど2ヶ月前に大学を卒業したばかり、
当時は大学闘争の華やかな時代で、学校の授業も闘争の為
休講が多く、これ幸いと麻雀とアルバイトに時間を費やし、
結局はこれといった専門的知識も持てず、
「何とは無し」に生き、「何か良い事ないかな」といつも
受動的な、甘え3原則(無定見、無気力、無節操)
でその日を暮らしてきた。

そんな無為の自分が嫌で嫌でしょうがないのだが、
どうしたら良いかも分からない、このままではヤバイという、
そんな漠とした、何か分からない将来への危機感から
逃げ出す為の船出だった。

少なくとも自分ではそう思っていた。

私を知る人は皆、現実からの逃避と思っていただろうけど。

大義名分をかざさないと理解してもらえないと、
その年の春の就職に失敗した広告業にまた挑戦する為に
「実際にオーストラリアに行き、輸出入広告の勉強をして来る」
などと言っていたが、今から考えると、今の職業である散骨屋を
開業する為の航海がここから始まっていたのだと思えてならない。

新大陸オーストラリアは雄大で、その自然は何もかも優しく包んでくれる。

自分の将来に悩んでいた優柔不断な若者にも希望を少しばかりは
分かち与えてくれた。オーストラリアの大陸をボロ車で
ほぼ一周した。ボロ車の耐久試験みたいに赤い砂漠の
道なき道をひた走った。止まるとそのままエンジンがかからなく
なりそうな気がしてエンジンを切るのが躊躇され、
いつも祈るような気持ちでキーを回した。
夜には満天の星が地平線まで満ち、星の数の多さを教えてくれた。

海は、それまで見ていた湘南の海の色とは違い、
ターコイズブルーとか、エメラルドグリーンとかカタカナが似合い、
そこに住む魚までも原色に染めていた。釣れた原色の魚には
毒があるのでは、という恐れと、空腹とを計りにかけたが、
空腹にはいつも負ける。数秒後には綺麗に平らげていた。

骨まで原色なのにまたびっくりさせられ、食べたら死ぬかも
という思いよりも空腹が打ち勝ち、
いつ毒による痛みが来るのかと怯え、食べる時間の何百倍もの間
後悔したが、何もないのが分かると青色魚は毎日の主食となった。

(散骨屋への旅立ち1)

月もその満ち欠けが、一日毎にはっきり違い、地卵色をした
おおきな月のウサギは何故かここではもっと大きく見え、
アバタまで良く見える。

自分が地球の一員だという事がはっきり認識できた瞬間だった。

一年半の滞在中、海に遊び、山に遊び、広告の勉強は一切せず、
自然の中で生きることがどんなに素敵なことかを知リ、
すぐ過ぎてしまう時間が恨めしかった。
人生は偶然に作用され、誤解によっても人生の航路が
変化することを後で学んだのだが、

この自然と遊んでいたことで、帰国した後、その頃夢であった
広告会社に就職することが出来た。

面接した重役が海外に出たことを、学校の成績よりも
重視してくれたおかげだ。

時代はバブルにさしかかる前、日本の異常ともいえる
経済復興期で、オーストラリアに住んだイコール英語が話せる、
オーストラリアで結婚したことイコール妻はオーストラリア人
だと誤解が誤解を呼び数年後には米国に支社を作る為に
赴任命じられた。その後ロスアンジェルスで十五年を過ごす
こととなりオーストラリアで知った自然との楽しむ術を、
アメリカで開花させることになった。
アメリカでは、業務があり、それも新しく会社を設立するという
役目を仰せつかったのだから、頑張ったが、これは関係ないので
ここでは差し控える。

しかし、アメリカでの赴任を通じて分かったことは、
人間誰しも生きる為に働くけど、<働くことが全ての人>と
<何かをしたいが為にその目的の為に働いている人>がいることだ。
例えば、自分の所属する会社の中で役職の階段を一歩ずつ
上がるために自分の時間を全てささげ、そこに生きがいを
見出す人と、給料はある程度の額でよしとし、自分の時間を
家族の為とか趣味に使い、1分たりとも残業などには使わない
人たちがいることを知った。皆が皆出世欲を持ち、自分も
もっと頑張らなくてはいけないと信じ、出世欲に凝り固まった
私にとって後者の存在など、考えも出来なかったが、
そんな自分が自然との出会いを通して変化していくのに
時間は掛からなかった。

この素晴らしい地球を満足するほど楽しみたい。
そんな簡単なようなことだけど、これを現実にするのは難しい。
最初は何をしたらいいのか分からない。
そこで、地球制覇の為には空、海、陸を知らなくてはいけないと思い、
まず、船長免許、パイロット免許、ダイビングの免許に挑戦した。
そういう事でもないのだが、最初の一歩をどっちの方向に
踏み出したらよいのだか分からないのだからしょうがない。

そして次には、月、星の本などを読み漁り、
いろいろなリゾートを旅し、如何に自然と楽しむかを題材に
月刊誌に投稿などもした。

(散骨屋への旅立ち2)

長期にわたった米国駐在中に父、母とも亡くし、
2回の葬儀を経験、葬儀の「しきたり」を学んだのだけど
「しきたり」という無意味さに何とも釈然とせず、
人間最後のステージで、その人間が持つ人間らしさを
すべて削除したようなおしきせの葬儀に
「何かが違うんじゃないか」との思いが頭一杯に満ち満ちてきた。

一例をあげよう。

父の葬儀は父の生前からの希望で先祖からの菩提寺である
お寺で葬儀を執り行った。

葬儀社に受け付け用のテントを借りるのに、30万円掛かる事が分かった。

それ自体途方も無い高額だと思うが、式当日の予報は曇りのち雨、
こうなると、傘をお預かりするもう一張りのテントが必要らしい。
都合60万円、私は断った。
そして、いつもはお祈りをしないのに、雨が降らないように祈った。
葬儀社の社員が私に耳打ちをした。
「貴方の役目はお父さんを少しでも知っている人だれでも
いいですから、電話をかけまくりなさい、電話を受ければ
必ず参列してくれますから」

彼の言いたいことは歴然としていた。
「参列すればお香典を持ってくるだろう、そうすればテントの
一張りや二張り、何も問題ではないよ。」

私は愕然とした、これから母だけで暮らして行かなくては
ならないのに、母の生活費をさいて、テントを借りる。
これはお客様の便利さを考えるより、見栄に近いものだ、
そして、日本には冠婚葬祭の冠婚には行かなくてもいいが、
葬祭には時間を割いてでも参列せよという慣行なのか、
教えがあるらしい。
それを利用し、葬儀屋さんを肥えさせる為に電話攻勢をかけるなど
冗談ではない。

そして、式当日、私のお祈りは通じた。
雨は降らなかった。

この他にも「しきたり」と称し訳のわからないものが多くあり、
葬儀の経験が無いことをいいことに、故人の冥福という
大義名分をかざす葬儀のあり方に釈然としないまま、
赴任先の米国に帰り、この国ではまさかこんな不合理なことは
無いだろうと調べを始めた。

するとどうだろう、この国でも同じような状態で、
しきたりは少ないものの、悪名高きは葬儀屋さんだったのである。

良い葬儀屋さんの名誉の為に付け加えるが、その頃はまだ、
フューネラルディレクター制度が一般に行き渡らず、
多くの知人からは、葬儀の時は気を付けろと教えられたのだが、
既に明朗会計で定評のある葬儀社もあった。
ただどこの葬儀社が明朗会計なのかを見つけるのが時間もかかり大変だったのだ。
調べを進めていくうちにさすがアメリカである。人間は地球に
生まれたのだから地球に戻ろうという「自然葬」に巡り会えることができた。
今日本やアメリカで出来る自然葬は、散骨や、植樹葬だが、
何よりも形式にとらわれず自然への回帰を目的とし、
人生の最後の舞台を自分らしく演出できる点が良い。

アメリカでは200年以上の歴史がある自然葬なのに、
まだ日本では一般的ではないものの、私の感じていた一般的な
葬儀の釈然としないものを完全に洗い流してくれ、

「これを日本に紹介しよう」と直感した。

人生には二度大きな波がくると言う、もう何度の大波を知らない内に
やり過ごしたのかは分からないが、私にとっては自分の人生を賭けるのに
ふさわしい、何もかもを洗い流す、二度目の大波に乗る航海がまた始まった。

ツイート