散骨屋日記

オリジナルな自然葬目指して

自然葬に前例や慣習は無い。自分たちでオリジナルな式を演出し、
故人の人柄を偲び、
長く思いをはせることが出来ればよいのだが、
長い間数々の式を見ていると、良い自然葬と悪い自然葬が出てくる。
どこが違うのだろうか?

その答は簡単。

何故自然葬を選んだのか、故人又は遺族のメッセージが式に
表れていれば良い自然葬となる。

自然葬の良い所は故人、ご遺族が良いと思う方法で送れば
いいのだけれど、何度も自然葬を経験した人はそういないし、
好きにやりなさいといっても困ってしまう。

だから散骨屋さんに頼むのだけど、どの散骨屋でも
式次第はほぼ同じなのだが、その内容は大きく違う。
形式的に葬儀を進行すると、何の感激も、故人を偲ぶ気持ちも薄れてしまう。

散骨は故人の御遺骨を海なり山なりに撒くという行為には
変わらないが、撒く事自体はは式を通しての一部であり全てではない。

難しいことを考えることはなく、簡単なことでも十分に心を打つ式は出来る。
式全体を通して気持ちのこもらない散骨など自然葬とは言えない。

いや、気持ちがこもっていても、そこに参列した者全員が
同じように故人を偲び、お送りするのでなければただの
「散骨」になってしまう。

蛇足だが、20数年前、父を荼毘に附す時、火葬する為の
扉を閉める市の職員が帽子を取り、取ってつけたように
遺族へ形式的なお辞儀をして見せた。長年同じ役目をして
きたからだろうと思うが、全く感情のこもらない
ただの形式だった。

役目だからしょうがないと言えばそれまでだが、
私が執り行う自然葬には形式は要らない。
しきたりや形式を全部排除してしまう。

参列者以外にも船長やクルーが乗り込むが、一人でもそういう
人間がいると自然葬そのものを形骸化させてしまう。
皆の心を一つの方向に向ける=これも式典執行責任者
(セレモニーディレクター)の重要な役目だ。

私の場合は、自然葬の申込前にどういう式を持ちたいのか、
希望を聞く事から仕事が始まる。

出来れば故人の趣味、故人の要望なのかそれともご遺族が
自然葬を選んだのか、またまた参列者の年代、障害の
有無などもお聞きし、式全体を組み立てる。

お式の前日に現地でお客様とお会いし、
最終の打ち合わせに臨む。

そこで変更可能なことを調整し、自然葬などのことについて
ご説明し、また故人の人柄であるとかをお聞きし、
船に乗り込む全員がご遺族の心の痛みを分かち合えるよう
お式当日に船長やクルーに通訳、説明する。

式自体はシンプルだが、心に響く良い自然葬は一同が同じ
心持にならないと出来ないからだ。

長年一緒に暮らしてきた遺族の方の故人を思う心があればこそ
の出来ることがあるはずだ。

Kさんは60歳を目前にして奥様を亡くされた。
散骨を終え、そろそろ帰港の時間となった時、
「すみません皆さん」とKさんが乗船している全員に向かって呼びかけた。

「妻が好きだった歌があるので、その歌詩をここで、朗読しても良いですか?」

それは、昔Kさんが、結婚する前に奥さんに、
贈ったレコードにあった曲で、亡くなる前にも奥さんが良く
聴いていた愛の歌だった。

時々風に打ち消されそうになる声を、心の中から振り絞り
朗読し、邪魔する涙をこらえ、3番まで続けた。切々と
読み上げ、一言一言を自分で確認するかのように
朗読する時は10分とも15分とも思われたが、
誰のこころにも深く静かに入り込んでいった。

やっとのことで、朗読を終えるとKさんは、はっきりした声で、
「結婚して以来僕はこの曲のように、
はっきりと好きだと言う事も無くなってしまいました」
でも、「今まで変わることなく彼女を好きでした。
そして素晴らしい女性であり、妻であり尊敬もしていました」
「今日皆さんに聞いていただいた歌詞は私が今まで
言いたかったけど言えなかった私の心です。」と、結んだ。

私の目指したい、オリジナリティーのある自然葬の演出とはこういうものを指しているのであり、演出というより、心からの声であるし、行いなのだ。

*Mさんは「いつか行って見たい」と言っていたお母さんが、
残念ながら一度も行く事のなかったハワイで分骨するために申し込まれた。

散骨の時に撒く生花を多数注文され、お母様のお好きだった
トロピカルフラワーの数々や白いバラと特別に
赤いカーネーションも希望されていた。

式が始まるとMさんは、
「皆さん、カーネーションを1本ずつお取り下さい」
「今日は私の母の自然葬に参列して頂きありがとうございました」
と挨拶が始めた。
お母様は、発病して2ヶ月で亡くなられた。
悪性の癌は、こんなにも短い期間で人を蝕んでしまう。
Mさん達姉妹が子供のころから、子供たちの事を優先し
大事に育ててくれた大好きだったお母さんの思い出を語り、
参列している方全員と船長をはじめクルーにも
赤いカーネーションが手渡されると、

「母が生きている時には、母の日といえどもカーネーションの
1本も贈ることなく、母のしてくれていた事が当たり前のように
思って生きてきました」

「今日は、ハワイに来たがっていた母の自然葬ですが、
同時に私たちが出来る最初で最後の親孝行と感謝の
気持ちを伝えたくてここに来ました」

「そしてゴメンナサイ今まで、と言いたくて」と付け加えた。
「今日は参列していただいた皆さんにお願いがあります。
「母を送るためにここまで来ていただいたのですが、
それと同時に、皆さんのお母様へ感謝の言葉を添えてこの
カーネーションをハワイの海に流してほしいのです。

Mさんの気持ちを察し、ほぼ同じように母親への
感謝が足りない自分を悔いたのは、私だけではなかったと思う。
たった1本のカーネーションだけど、
その1本には重みがあった。
後悔も溢れているけど、愛も感謝もそれ以上に満ち溢れている。

何をしようかウケなど狙う必要はない。

心にいつも有る、こうして上げたら良かったな。と思うことを
実行さえすれば良いのだ。意外とオリジナリティーのある
自然葬を創り上げるのは難しそうで、簡単だと思うのだが。

どうだろう?

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